介護放棄、飢餓状態…司法解剖で学んだ悲しい最期
勝村聖子の歯科法医学日誌 #3 会員限定こんにちは。桜のつぼみもだいぶ膨らみ、暖かな春の日差しを感じる季節になりましたね。
卒業・入学・進級、新たな門出を迎えるこの季節、私が思い出すのは、初めて司法解剖に立ち会った日のことです。私が法医学を学びたくて進学した東京医科歯科大学の大学院は、東京都23区内の日曜の司法解剖を担当していました。
その日はとても暖かく穏やかな日曜日でした。まだ大学院に進学したばかりの私は、入学に合わせて購入したノートパソコンで、壁紙を選んだりメールアドレスを登録したりのんびり過ごしていました。11時ごろだったでしょうか。「解剖1件入りました〜」という教室員の声に、「来た!」身体がブルっとしたのを覚えています。続いて考えたのがお昼ご飯。皆さんだったどちらを選びますか?
① ちゃんと食べて解剖に備えなきゃ
② 胃の中に何も入れておかないほうがいいかも
私は迷わず前者です! お弁当をガッツリ食べて早々に解剖着に白衣を羽織って準備万端、デスクに座る。でもなんだか落ち着かなくて立ってみる・・・を繰り返し、上司から「まだ来ないから、少し落ち着いて。ちょっと座っててくれる?」と苦笑される始末。
13時過ぎの「ご遺体到着しました~」の声で起立。先輩の大学院生に連れられて解剖室に向かいます。遺体を乗せたストレッチャーと警察官と共に解剖室に入り、ご遺体の体重を測って解剖台に乗せ、着衣を確認。さらにカメラにフィルムをセットし解剖準備を始めます。司法解剖は死因がわからない状態で行うので既往歴も不明で、どんな感染症が潜んでいるかもわかりません。解剖室に次々に集まってきた教室員の先生方と共に感染対策に気をつけて身支度を整えていきます。
私がこだわったのは手袋。まずはコットン手袋、その上に二重でゴム手袋をして、さらに軍手をつけました。軍手は滑りにくく、メスや針を使う作業で不意の事故を防ぐ目的です。
ちょっと余談ですが、4重手袋を容赦なくすり抜ける強者がいるのです。それは「臭い」。特に腐敗の進行したご遺体では、解剖の後も手に臭いが残ります。何度洗っても一瞬ハンドソープの香りになるけれど、しばらくすると臭いが復活してきます。夜、忘れた頃に「この臭いなんだっけ?あー、解剖の臭いだ」と思い出すのです。臭いの粒子はグローブの微細な穴より小さく、透過する。解剖で学んだ教訓です。
初めてのご遺体は介護放棄された高齢の女性でした。30kgほどに痩せ細り、全身至るところに褥瘡ができていました。歯学部の講義で学んだ褥瘡は、赤い変色や化膿しているものなどでしたが、この日見たのは広範囲に渡って真っ黒で皮膚は硬く、放置された褥瘡はこんなふうになるんだと初めて知りました。
また解剖では、消化管も開いて内部を確認していきます。特に胃の内容物は、消化状態から死亡のどれくらい前に何を食べたのかを推察し、死までの経過を追っていくのに利用します。
この女性は、胃も腸管もほぼ空で、少量の粘液だけでした。食事も摂れずに放置され、飢餓状態だったのは初心者の私にも明白で、とても悲しいヒトの最期を学ばせていただきました。その日は家に帰って離れて暮らす祖母に電話をしたのを覚えています。内容は「今日、初めての解剖だったよ」「そんな怖い話、聞かせてくれなくていいわ」なんていう何気ない会話でしたが、元気に暮らし、美味しいものを食べ、太ったことを気にしている祖母を思ってほっこり幸せを感じました。
令和2年度の調査によると、養護者による高齢者虐待と判断された件数は17,281件。介護放棄は18.7%で、そのうち7.4%が生命に危険のある「深刻度5」であったと報告されています。訪問診療も増える中、歯科医師として高齢者の生活にも目を向け、見守ることのできる存在でありたいですよね。
今日お話ししたのは、もう20年以上も前の記憶です。もうすぐ始まる新年度。皆さんにも忘れられなくなるようなたくさんの学びや出逢いがありますように。
鶴見大学 准教授
勝村聖子
歯学部を卒業後、東京医科歯科大学大学院を修了し博士号(医学)を取得。細菌学、解剖学に籍を置いたのち、鶴見大学にて歯科法医学の研究に携わる。2011年に東日本大震災で身元確認を行ったことをきっかけに、フジテレビ『監察医 朝顔』の法歯学監修も担当。仕事のお供にドライフルーツやナッツを食べるのが好き。
歯学部を卒業後、東京医科歯科大学大学院を修了し博士号(医学)を取得。細菌学、解剖学に籍を置いたのち、鶴見大学にて歯科法医学の研究に携わる。2011年に東日本大震災で身元確認を行ったことをきっかけに、フジテレビ『監察医 朝顔』の法歯学監修も担当。仕事のお供にドライフルーツやナッツを食べるのが好き。
勝村聖子の歯科法医学日誌の記事一覧
- #1 身元不明死体の名前を取り戻す。歯科法医学は「人生最期の歯科医療」
- #2 解剖は、“その人”と対話する時間
- #3 介護放棄、飢餓状態…司法解剖で学んだ悲しい最期
- #4 傷の位置、タイヤ痕、出血の有無。交通事故のご遺体に隠れた事実とは
- #5 ある日突然、命が失われたら…夏休み前に考えてほしいこと
- #6 関東大震災から100年。災害による社会の変化を考える
- #7 被災地へ向かうまで――東日本大震災の記憶<1>
- #8 助け合い、譲り合う…災害時にこそ見えてくる人間のモラル
- #9 歯科医師の使命と、人としての心――東日本大震災の記憶<2>
- #10 遺体安置所は「生」のありがたさも感じる場所――東日本大震災の記憶<3>
- #11 自分は何をすべきだったのか…正解のない問いに向き合う――東日本大震災の記憶<4>
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